
ロベール・カンパン
ロベール・カンパン Robert Campin
(1375/79頃〜1444)
フランドルの南、エノーの都市トゥルネで活動した画家。1406年頃にトゥルネに移り、活動を始めた。1423年には画家組合の長を務め、1423〜38年にはギルドの代表として市の政治にも関与していた。1429年には不道徳な生活を送ったとして、プロヴァンスのサン・ジルまでの巡礼を命じられている。
トゥルネはブルゴーニュ公国ネーデルラントに属していたが、宮廷は置かれず、カンパンは裕福な新興都市市民のために写実主義の作品を制作していた。1415〜20年頃に制作された「キリストの埋葬の祭壇画」で国際ゴシック様式を脱して、新しい様式を始めたとされる。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
名画への旅9 北方ルネサンス1 講談社
(1375/79頃〜1444)
フランドルの南、エノーの都市トゥルネで活動した画家。1406年頃にトゥルネに移り、活動を始めた。1423年には画家組合の長を務め、1423〜38年にはギルドの代表として市の政治にも関与していた。1429年には不道徳な生活を送ったとして、プロヴァンスのサン・ジルまでの巡礼を命じられている。
トゥルネはブルゴーニュ公国ネーデルラントに属していたが、宮廷は置かれず、カンパンは裕福な新興都市市民のために写実主義の作品を制作していた。1415〜20年頃に制作された「キリストの埋葬の祭壇画」で国際ゴシック様式を脱して、新しい様式を始めたとされる。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
名画への旅9 北方ルネサンス1 講談社
トゥルネは彫刻が盛んな都市で、カンパンも彫刻の彩色をしたという記録が残っている。グリザイユで祭壇画外面に彫刻のように描かれた「聖三位一体」などの作品がある。また「マリアの婚約では」戸外や屋内が現実的に描かれ、「メローデ祭壇画」の中央パネル「受胎告知」はブルジョワの室内での出来事として描かれている。
「聖母子」と「聖女ヴェロニカ」はフレマールの修道院の祭壇画を構成していたとされる。様式的特徴から一連の作品が「フレマールの画家」によって描かれたとされていたが、その多くはカンパンが描いたと考えられるようになった。また1427年にはロヒール・ファン・デル・ウェイデンがカンパンのもとに弟子入りしている。
トゥルネでおきた反ブルゴーニュ派蜂起の主導者だったらしく、1432年と44年に国外追放処分を受けている。追放後は小心な画風となったが、その芸術的特質はファン・デル・ウェイデンに受け継がれている。
人物略歴
「聖母子」と「聖女ヴェロニカ」はフレマールの修道院の祭壇画を構成していたとされる。様式的特徴から一連の作品が「フレマールの画家」によって描かれたとされていたが、その多くはカンパンが描いたと考えられるようになった。また1427年にはロヒール・ファン・デル・ウェイデンがカンパンのもとに弟子入りしている。
トゥルネでおきた反ブルゴーニュ派蜂起の主導者だったらしく、1432年と44年に国外追放処分を受けている。追放後は小心な画風となったが、その芸術的特質はファン・デル・ウェイデンに受け継がれている。
人物略歴